江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜の父である徳川斉昭(なりあき)。

水戸八幡宮は徳川斉昭のお休み処としても重宝されました。

烈公と言われた斉昭公は、一体どんな人生を送ったのでしょうか。

第9代将軍としての斉昭公

水戸徳川の象徴である水戸東照宮を創建した初代水戸藩藩主の徳川頼房。

斉昭公は、第9大将軍にあたります。

寛政十二年(1800年)に徳川治紀の三男として生まれ、母は外山光実の養女であり烏丸資補の娘である瑛想院。

徳川治紀についてはあまり記述が残っておらず、水戸藩の財政はあまり芳しくない状態であったと推測されますが、質実剛健を目指した政治姿勢や彰考館の学者の抜擢、現大洗における外国船との海岸防備に対する意識などは、子である斉昭公にしっかりと受け継がれていきました。

戦車

斉昭公の幼名は敬三郎。

兄弟は男4人、長兄の徳川斉脩は13年間の治世で一度も水戸領に入ることがなく、領内士民に接する機会のなかった藩主であったそうです。

文政12年(1829年)9月になると折から病となっていた斉脩の病状が悪化し、世継ぎがいなかったために時期藩主について誰につかせるかという問題がでてきました。

他兄弟は早世したり敬三郎は部屋住みで残っていましたが、将軍の子を養子にすることで幕府との関係を深めたい一派と、血統からの継承を主張する一派の対立。

病に伏せる中、10月1日に斉昭擁立派の40名あまりが無断で江戸に上り、緊迫した事態となりましたが10月4日に死去した斉脩から敬三郎を養子とする旨の遺書が見つかり決着が付きました。

こうして、第9代将軍徳川斉昭が誕生しました。

徳川斉昭が行った政治について

斉昭公は部屋住みの頃から、聡明さで有名だったそうですが、それは藩主になってからも生かされました。

徳川斉昭が家督を継いだ頃、水戸藩は35万石でしたが、徳川治紀の代で幕府からの援助を受けていました。

水戸藩の停滞した藩政を立て直そうと、父である斉脩の正室が将軍の娘だったことから幕府と関係を結び、文政8年には1万両の永続金が支払われていました。

これを、斉昭公は返上することにして自身も生活の質を見直し、衣食住全てに対して質素倹約をすすめたのです。

農人形

青銅で農人形という像を作り、食事の度に最初の一箸のご飯を供えて農民の労に感謝したと言われ、今でも水戸の各地でこの銅像をみることができます。

梅の実一粒も無駄にしない、頂く食事に感謝する、今までの藩主では見られなかったこの姿に感化され、少しずつ財政は整っていきました。

また、自身も部屋住みが長かったため藩主としての食事が出されると「豪華すぎる」ともとの食事に変えさせたと言われています。

  1. 「経界の義」(全領検地)
  2. 「土着の義」(藩士の土着)
  3. 「学校の義」(藩校弘道館及び郷校建設)
  4. 「総交代の義」(江戸定府制の廃止)

これらを掲げ実行し、その功績は後に水野忠邦の天保の改革に影響を与えたといわれています。

斉昭公が目指した一張一弛

一方で、紙やタバコなどの産業復興を図ったり、蝦夷地の開拓、人材育成のための藩校「弘道館」や領内の民とともに愉しむという意味から名付けられた「偕楽園」などの創設にあたりました。

偕楽園

この偕楽園は中国古典である『孟子』の「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節から採用したもので、水戸の千波湖に臨む七面山を切り開き、回遊式庭園を目指した公園でした。

また、偕楽園の中に建設された好文亭は、木造2層3階建ての好文亭本体と木造平屋造りの奥御殿があり、その位置から建築意匠まで斉昭公が自ら定めたといわれていて、現存するものは昭和20年の空襲で焼けたものを復元したものです。

好文亭

この好文亭は、藩主の居所としてだけではなく休憩所・敬老会・宴会など各種催しに利用され、広い濡縁の間や飲食の類を三階まで運搬するために木製滑車を利用した昇降機の設置(物の運搬用としては日本現存最古)や玄関がないことなど、当時としては変わった趣向となっています。

偕楽園と対になっているのが弘道館で、こちらは日本最大規模の藩校でありました。

15歳から入校でき、40歳までの就学義務がありますが卒業は無しとされ、現代で言う小学校から大学までを一緒にしたような生涯学習の仕組みになっていました。

正庁、至善堂の他に文館、武館、天文台、鹿島神社、八卦堂、孔子廟などが建設され、馬場、調練場、矢場、砲術場などもある総合的な教育施設。

また、ここでは現代の医学部に当たる医学館もあり、当時としてはかなり珍しかったようです。

光圀公から続く水戸学が盛んになったのも、弘道館という学び舎ができたことが大きな要因であったと言えます。

この弘道館と偕楽園を一つとみなす「一張一弛」という作りも非常に興味深いですよね。

一張一弛とは

弓の弦の張りを強めたりゆるめたりすること。転じて、人に厳しく接したり、寛大に接したりすること。また、心を引き締めたりリラックスさせたりすること。経済用語では、取引所で相場が小幅な高下を繰り返すこと。
故事 聖天子とうたわれる周の文王や武王が、時には厳しく、また時には寛大に人民に接し、天下泰平をもたらしたという。

出典元:学研 四字熟語辞典

徳川家康が風水に通じていたというのもあるのでしょうか、偕楽園は陰陽思想が取り入れられています。

正門から入ると竹林があり、そこを抜けると開放的な梅林に繋がります。

千波湖
引用元:千波湖ホームページ

弘道館でしっかり学び、引き締めた陰の気を陽の気にする梅や桜。

引き締めるばかりではよくないという、斉昭公の思いが反映された偕楽園。

後楽園、兼六園と並ぶ日本三名園の中で唯一、無料で入園できるということで続いてきましたが、2019年に改定され有料になりました。

梅

斉昭公と開国を迫られていた日本幕府

斉昭公といえば強硬な尊王攘夷で有名ですが、外国の文化や優れたところを積極的に取り入れるという好奇心と知識がありました。

茨城は太平洋に面していたのもあり海防意識が特に強く、武装強化による国防の必要性を強調し、反射炉などを作らせ大砲を製造し幕府へも献上されました。

また、江戸の石川島において西洋式の大船「旭日丸」の建造、山野で薙や山鳥などを的に見立てて弓や銃などを使用し、狩狩猟の形式をとった軍事演習「追鳥狩」という軍事演習を実施したり軍力を高めていきました。

時は幕末、時代の変化もあり浦賀にペリー率いる黒船の来航、那珂湊港にもイギリス船が上陸したり危機感は募っていたのでしょう。

それから程なくして当時の将軍徳川家慶が死去。

将軍の後継ぎとして候補に上がったのは子である徳川家定でしたが、家慶の14男13女のうち成人まで生き残ったのは家定のみであり、彼自身もまた病弱であったと言われています。

加えて、ほとんど表に出ず将軍となってからは病気も悪化。

島津家から正室・篤姫を迎えますが子供にも恵まれなかったため将軍継嗣問題が浮上してきました。

家定に近い血筋である父家慶の異母弟の斉順の子、家茂(紀州藩13代当主)を世継ぎにしたい譜代大名と大奥。

一方、田安、清水と並んで御三卿であった一橋慶喜(斉昭公の7男)を世継ぎにしたい水戸藩一派。

慶喜は幼少期から聡明であり、過去に先の将軍徳川家慶が世継ぎにしたいと打診したこともあり政治的手腕も期待されていました。

慶喜

ただ、斉昭公は一節によると正室(有栖川宮織仁親王の第12王女である吉子女王)との関係は良好でしたが側室、それ以外にも色問題があり37人の子供をもうけてもなお、噂は絶えなかったようで大奥から批判を受けていました。

それが影響を及ぼしたのかはわかりませんが、大奥といえば将軍のお世話をするだけでなく政治的にも繋がりがあったのではという話もあります。



話を戻して、家茂を中心とする前者を南紀派、後者を一橋派と呼びますが、南紀派は老中に井伊直弼(紀州藩14代当主) を採用。

これが引き金となり、あの事件がおきるのです。

斉昭公を擁護する水戸藩による一揆

老中となった井伊直弼は、徳川家茂を14代征夷大将軍に。

また、それまで平行線にあった諸外国との同盟を朝廷の勅許が降りるまで待つよう指示しますが、開国派の老中・松平忠固がそれを待たずペリーと日米修好通商条約を調印。

開国へと時代が変化していくことになりました。

安政の大獄による水戸藩弾圧

そして、朝廷の孝明天皇から水戸藩に「戊午の密勅」と呼ばれる幕政改革を求める勅命が授けられました。

その内容は、幕府に斉昭らの処罰の理由を問い、さらに御三家や諸大名は幕府に協力して公武合体を強化せよとの趣旨のもので、この内容を水戸藩から御三家や諸藩に伝えるようにとの副書がついていたと言われています。

これについても様々な話がありますが、このやり取りを知った井伊直弼は激怒し、水戸藩への弾圧を開始します。

1858年6月、勝手に開国したとして井伊直弼の責任を問うべく江戸城へ向かった一橋派の徳川斉昭、松平慶永を不法な登城であるとして処罰した安政の大獄。

その処分は100人に登ると言われています。

水戸藩で幕末に活躍する弟子を育てた吉田松陰も死罪となり、門下生の高杉晋作や伊藤博文などの活躍を見ないままこの世を去りました。

吉田松陰

これがきっかけで斉昭公も江戸の水戸屋敷にて謹慎となり、さらに安政6年(1859年)に水戸での永蟄居となり61歳の生涯は幕を閉じました。

斉昭公が亡くなったあとに、水戸藩では大きな動きが起こります。

水戸藩を中心とした打倒井伊直弼を掲げた桜田門外の変や、藤田東湖の子である藤田小四郎を中心に据え慶喜を通じて朝廷に尊皇攘夷を訴えようとした「天狗党の乱」など、これにより水戸学を学んだ藩士達が明治以降まで生存できなかったのは残念でなりません。

斉昭公の影響力の凄さ、そしてプライベートでの激しさから諡が「烈公」となったのも分かるような気がします。

幕末
幕末の天皇 (講談社学術文庫)
幕末

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