水戸駅から徒歩10分程、水戸の東照宮と呼ばれる神社があります。

宮下銀座という商店街が見える手前、大きな赤い鳥居があるのですが、ここが東照宮の入り口になります。

東照宮入り口

もともとこの近辺は松が生い茂る「霊松山」という景勝地だったそうで、東照宮が創建された後に元禄十二年(1699年)第二代藩主光圀公によって常葉山とあらためられました。

徳川家康公を祀る東照宮

東照宮の赤い鳥居をくぐると、目の前にゆるい坂、右側に傾斜のきつい階段がありますがそれぞれ「女坂」「男坂」と呼ばれています。

女坂男坂

いずれから行っても神社にたどり着けますので、行きは男坂で帰りは女坂など使い分けてもいいかもしれませんね。

男坂から登っていくと、左側にお稲荷さんが祀ってあります。

稲荷神社

ここのお稲荷さんはシンプルな作りですね。

そして、少し進んだ右側に鎮座するのが天満宮。

菅原道真公が祀られています。

天満宮

それもあってか、七五三の時期は八幡宮に並んで人気の神社となっています。

>>水戸に来たらまず水戸八幡宮へ

東照宮は、元和七年(1621年)の四月二十一日、初代水戸藩主である徳川頼房公が、父である徳川家康公の御霊を祀ったのがはじまりとされています。

頼房公は、家康が60歳を超えてから授かったと言われていて、わずか7歳で水戸城二十五万石の領主となり、元服するまでは家康の下で育てられました。

あまり語られない威公頼房について

さて、この頼房公ですが初代水戸藩当主ということを知らない方も多いでしょう。

光圀公、斉昭公は歴史的にも名高いですが、意外と頼房公についての文献などは残っていません。

頼房公は、家康公が六十一歳の時に十一男として生誕し、鶴千代という幼名をつけられました。

駿府城の父家康の膝下で養育されていましたが、七歳の年に水戸二十五万石の城主となりました。

ここから、水戸御三家が始まります。

徳川御三家に水戸が選ばれた理由

徳川御三家、という言葉をご存知でしょうか。

葵の御紋、すなわち三つ葉葵の紋を使うことを許されたのは、将軍家と御三卿と御三家のみでした。

葵の御紋

徳川義直(家康九男)が名古屋の小張藩、徳川頼宣(家康十男)が和歌山の紀州藩、そして徳川頼房(家康十一男)の水戸藩。

水戸は江戸から見た時にちょうど鬼門の位置にあたるため、門番としての役割もあったのではないかという説もあります。

頼房が家康を祀ったとされる東照宮は当初、神仏習合で仏祭でしたが、後に烈公(斉昭公)が従来の仏祭を廃止したために神祭となりました。

昭和十一年(1936年)には初代藩主頼房公が配祀されますが、昭和二十年八月二日の太平洋戦争による空襲で焼失してしまいます。

その後、昭和三十七年七月二日に社殿・境内整備の整備が完了しましたが、平成二十三年三月十一日の東日本大震災により社殿・社務所・境内が被災を受け、現在も復旧活動を続けています。

度々被災している東照宮ですが、その度に再建され大切に受け継がれていくのは、水戸藩の象徴であるからなのでしょう。

頼房公はどんな人物だったのか

さて、その初代藩主はどんな方だったのでしょうか。

七歳で水戸藩城主になりましたが、慶長十九年には大坂冬の陣・夏の陣が起こりました。

この時まだ十二歳であった頼房は、駿府城の留守警備を命じたために、家康の子供達のうち頼房だけが実践体験を持ちませんでした。

また、水戸家は江戸城府といって参勤交代をしなくても良いと言われていて通常は江戸の水戸藩邸に住んでいました。

しかし初代頼房は歴代藩主の中でも帰国回数は最も多く、11回。ついで光圀の9回との記述があります。

頼房による城下町の拡張と整備により、今の「下市」や「上町」の町人を移して商工業の中心地を形成しようとしていました。

また、お互いの行き来がしやすいように新道という堤道を築造。

下水道工事も計画していましたが、実現できずに寛文元年に亡くなりました。

頼房にまつわる逸話について

幼少の頃、家康が幼い子供たちを連れて天守に登った時のこと。

家康は子供達に「だれかこの上より、はぬる者あるべきや」と問いますが兄たちは誰も答えません。

すると、一番下の頼房が「吾こそはね下るべし。・・・さりながら、吾が望むところのものを賜はらでは、はねまじ」と答えました。

「何をか望みたまふ」

「天下を賜はらば、はぬべし」

「たとひ天下をもらひたりとも、此上よりはねんに、身は微塵になりてしすべし。然らばもらひたる天下を何にかせん」

「たとへ死すとも、天下を取りたる名は、万世に伝ふべし」

と、幼少ながら戦国武将の風格を備えていたということです。

また、水戸家の朝廷尊崇、尊王精神は頼房から始まったといわれています。

頼房の乳母が朝廷に仕えていたことからこの思想が芽生えたといわれていますが、それを引き継ぐ子の斉昭公がそれをまたすすめ、斉昭公の頃には仏教から神道に変わっていきました。

そして、これまで続いた殉死を禁止したのも頼房公でした。

通例では城主が亡くなると切腹し君主とともに、という風習が続いていました。

「家臣たちが生きてそなたに使えることが大事であって、後を追って死んでもなんの役にも立たない。そなたの力で殉死をやめさせてほしい」

という頼房の願いは光圀公を通して伝えられました。

同時期に、会津の初代藩主保科正之もまた、殉死を禁止しました。

このことがあって、将軍家綱の心を動かし「殉死の禁止」という法令が制定されたのです。

豪華絢爛な社殿

社殿は黒をベースに金色の葵の御紋が入り、非常に豪華な作りになっています。

社殿

天井には梅の絵が描かれていて、夜でも暗くないように蛍光灯がついています。

このあたり、少し現代的な作りになっていますね。

ちなみにこの装飾、扉に描かれている虎は家康をモチーフにしているそうです。

というのも、家康は寅年、寅月、寅日、寅刻に生まれたと言われていて、げん担ぎとして寅の方角から江戸入りをしたり「寅」にこだわったと言われています。

また、入口には鯉が描かれていますがその先のご祈祷まで進んでいくとその先には龍が。

というのも、鯉の滝登りに習ってゆくゆくは出世して鯉が伝説の龍になるようにという願いが込められています。

ちなみに、東照宮のお賽銭のあるところにはモスキート音が出るようになっていて乾物を狙う野良猫から守っているそうです。

これもまた、神社では珍しい作りですよね。

文化財も多く残る東照宮

社殿の豪華さだけでなく、東照宮には文化財としての価値が高いものも保管されています。

例えばこの灯籠ですが、これは家康公の33回忌にあたる慶安三年(1651年)に頼房公により奉納されたもの。

青銅で作られており、全高2m90cm、二基が対となって境内に配置されています。

東照宮と同様に戦火で焼失、とならなかったのは奇跡と言えます。

当時の姿のまま見ることができるので、細かい装飾まで是非見ていただきたいですね。

また、水戸藩第九代当主の斉昭公は尊王攘夷を唱えており、欧米の侵略が迫ってくるのではないかと察して、学力と軍力の強化、武備の充実を図りました。

仏信から神信にし、領内の梵鐘や仏像仏具などを集め、那珂湊に築いた反射炉を用いて型式の違う75門の各種の大砲を鋳造させたと言われています。

常磐神社にもこのときの大砲がありますが、それと同時期に作られたのが日本最古の鉄製戦車「安人車」です。

安人車

説明を見ると使用されたことはなかったそうですが、大牛一頭に引かせ、中に一人銃隊がはいり歩兵隊を従わせて戦うことを想定した作りになっています。

水戸の街を見守り続けている東照宮。

夏祭りなどの催事も豪華で見ごたえがありますので、是非水戸に観光に来た際には立ち寄って欲しい神社の一つです。

また、令和三年には鎮座400年記念として記念大祭が行われる予定ですのでこちらも楽しみなイベントの一つです。

水戸東照宮(権現さん)

所在地〒310-0015茨城県水戸市宮町2-5-13
交通案内:電車の場合はJR水戸駅北口から徒歩5分 お車の場合は常磐自動車道水戸ICから約30分
TEL 029-221-3784 FAX 029-231-5707
御祭神:徳川家康
神紋:三つ葉葵
ホームページ:https://gongensan-mito-toshogu.jp/index.html

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